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縁起と仏様

 710年南都の大満上人により創立。推古天皇により整備された日本最古の官道であり、伊勢参りや長谷参り等の参詣道として賑わった横大路・竹内街道に面している。明治時代の廃仏毀釈運動により、一旦廃寺となるが、浪花灯明長谷組親栄の三講の有志、有縁無縁の信者の方々の浄財喜捨により、すぐに復興された。寺領が失われただけでなく、多くの貴重な寺宝や古文書等が失われたが、なお平安時代から、鎌倉時代、室町時代、江戸時代に刻まれた仏像群が往時の多くを物語っている。

 近年は壇信徒各位や関係寺院である壺坂寺の協力により客殿、室生寺により釣鐘堂を建築、総本山長谷寺塔頭の清浄院を拝領した。また、本堂や庫裡や薬師堂の修繕など伽藍の整備も進められている。さらに、文化財指定後に御本尊である長谷型十一面観世音菩薩様の修復を執り行なった。

 

御本尊の観音様の伝説

 

滋賀県の高島郡三尾の白蓮華谷に約30m程の楠が生えていた。この木は常に輝き、芳しい香りがする不思議な木であった。6世紀初め、大洪水により大津に流され、その漂う処に色々と不思議な事を起こしていた。これを奈良県橿原市の小井門子が亡夫の冥福の為に仏像を造ろうと思い、運んで来たが着工できずに亡くなった。後に出雲臣大水沙弥法勢が自分の里の葛城市に観音を刻んで祀ろうと、この大和高田の当寺の前まで来たところ、不思議にも大盤石の如く動かなくなり、やむなくそのままになって法勢もまた死んでしまった。そのうち、この木を切ろうとする人は祟りを受け、礼拝供養する人には御利益があり、遂に人々が神木として参詣し市も立つさまであった。

この噂が天聴に達し、当時の高僧大満菩薩が遣わされて霊木を祈念し、刻み始めた。ところが毎夜半になるとノミの音が妙に響くため異様に思い霊木に近寄ると、この一音毎に観音の姿が鮮やかに刻まれて行った。これを安置したのが当寺の本尊であり、山号の妙音山はノミの音に起因しているという。 尚、霊木の残りは童子(地蔵菩薩)の墨染衣の袖に引かれ、東の桜井市初瀬の長谷寺の本尊として祀られ、当寺本尊と同型双霊の尊像となる。したがって、「本」をつけてその由来を表していると云われている。

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